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連続小説『水愛』第三話〜右腕〜
水愛 003 右腕

<これまでのあらすじ>
 大手水産会社の社内ベンチャー企画から、水産会社発症の地での地域密着型ビジネスを展開する会社・水愛(スイート)を立ち上げた佐々幸太郎は、東日本大震災当時の飲料水不足の体験からボトル水販売業に目を付けていた。県境にある採水業者・KNTの本社兼工場を訪問した彼は、年間契約の最小ロット数の多さに打ちひしがれていたが、単価の安さと品質の高さから前進を決意し、親会社の水産会社の力を借りるべく根回しを始めた。



 2013年の師走、軽い身のこなしで幸太郎の社長室を訪れた男がいた。水産の広報部員の岡部浩志だ。瀬戸内とはいえかなり寒いにも関わらず、浩志は春物のような薄手のトレンチコート1枚という出で立ちだ。

幸太郎も最近は機動性重視でロングのスリムダウンコートを愛用していたが、浩志の軽やかさには負ける。



浩志は幸太郎と5歳離れているうえ、一度も同じ職場になったことは無いが、かつて労働組合にて兄弟のように共に活動していた。彼らの水産会社では課長未満の職位の者は全員が組合員であることを義務付けており、若手の教育や社交の場という側面もあった。




「社長室といってもショボいもんだろ?珈琲も俺が入れたものだ。不味かったらすまん。」
よほど古いタイプ且つ重要な顧客でない限り、案件に関係のない女性従業員にお茶汲みをさせることを控えていた。それが水愛のスタイルだ。



幸太郎は遠慮なく社長室を隅々まで観察している浩志の様子を微笑みながら眺めていた。
「うちの組合事務所が小奇麗になった感じですね。なんだか懐かしいですよ。」
相変わらずの様子にお互い表情が明るくなってきた。

「早速で悪いけど、要件に入っていいか?ああ、うちの業容の説明を先にしないとな。」
幸太郎は浩志に水愛設立の趣旨とこれまでの歩み、業態、陣容や規模を一通り説明した。もっともだいたいは浩志も承知している内容ではあった。



次に本題の金田の水の販売について語り始め、浩志を呼んだ意図を説明した。幸太郎は膨大な数のボトル水の販路確保のアイディアや、将来これに関するビジネスを任せられる人材を引き入れたいと考えていた。そこで浩志を借りるべく水産に依頼したと。

「いいんですか、僕なんかで。ご存知かもしれませんが最近沈んでるんですよ。」
幸太郎が水産に居た頃は浩志は営業部員として活躍していた。水産では人事部が5年ローテーション制というルールを発しており、管理職未満の職位のものは5年を目安に他の部署に移ることを促していた。もっとも管理職ともなれば5年未満のスパンで目まぐるしく異動することになるのだが、浩志はその流れで広報部に移った。



 広報部での彼の役割は企業イメージの向上であったが、彼はそれを従業員満足度と相関させようと試みていた。決して背伸びすることなく、従業員が実感しているのと同程度の企業イメージをきっちりアピールする。逆に言えば、企業イメージを向上させたければ従業員満足度を向上させなければならない。そんな仕掛けづくりをしたいと思っていた。彼のそういった考えは、組合役員時代に幸太郎との夜遅くまでの激論によって醸成されたものだった。



そんな中、イメージガールを起用しようという話が持ち上がり、浩志がそれを担当することになった。浩志は自前の考えを実践するにあたり、ほとんど無名ながらクリーンなイメージの女性モデルを探して起用したいと考えていた。水産会社というのは海産物を取り扱うという特性上、部門によってはかなり泥臭いところがある。これまではなんとか根性論でやりくりできてはいたが、今や日本の経済は成熟しきっている。そのような感覚では良い人材がまるで集まらないし、社内の雰囲気もかなり悪くなってきている。おまけに昨今のグローバル化だ。高度経済成長期までの日本の働き方がまるで通じない。現地法人で一年以上働いてくれる現地人は稀で、駐在の日本人スタッフが夜遅くまで働き続けるという状況だ。



今の時代、「儲け=価値の獲得」である。顧客の価値観にどれだけ歩み寄れるかが重要なポイントだ。このような劣悪な条件で働く従業員達が、顧客から価値を見出してもらえる製品・サービスを提供できるとはとても思えない。今はまだ新市場への進出効果で業績は伸びているが、主な市場への進出が完了した後、破綻するのは目に見えていた。ではどうするべきか。まずは経営トップから末端従業員までの意識改革が必要だ。適切な働き方、人との接し方、環境保護の考え方など、これまでの水産が苦手としてきた人権に関する風土の醸成を進めていかねばならない。残念ながらこれが水産の現状だ。ゼロからのスタート、そんな気持ちで共に価値を共創できるような女性モデルを起用したい。



この浩志の思いに広報部の上司連中は概ね賛同してくれていた。上司から人事部と付き合いのある広告代理店を紹介され、このプランを相談したところ、広島支店で最近使いだしたモデルに浩志のイメージどおりの女性がいるという。それが後に水愛のイメージガールに起用されることになるyumiだった。そんなことになるとは思わず、幸太郎と浩志は話しを続けていた。

「でも最終的に保留になったんだっけな、その話。何か不都合でもあったのか?」
 冷めそうなコーヒーを飲むよう促しながら幸太郎は聞いた。
「法務部の協議者コメントがブレーキになったんです。そのモデルさんは海外だと子供に見えてしまうかもしれず、子供を就労させているイメージを持たれかねないと。」



あくまで可能性としてありうるという話しで、最終的には広報部の判断に任せるというコメントだったが、わざわざ危ない橋を渡ることもない。他にもまだ広報部が掴みきれていないリスクがあるかもしれないということで、イメージガールの件は一旦保留となった。
「かなり落ち込みましたよ。今も落ち込んでるんですけどね。そんなこと法務部から言われる前に広報部こそが把握しておくべき内容でしょ?」
浩志の視線はコーヒーの液面を見つめたまま、しばらく上がることはなかった。
「それにしても、法務部も随分キッチリしてるんだな。担当者は誰だったんだ?」
「山本さんですよ、佐々さんと同期の。」
幸太郎は思わず口に入れたコーヒーを吹きそうになった。あの歩く六法全書の異名を持つ山本が?



「あいつ、そういう方面に気がきく人物だったか?」
「少し前にイギリスに語学留学に出てたらしいんですよ、会社派遣の。期間が短いこともあって英語の方はそんなに上達しなかったらしいんですが、ビジネス英語のクラスだったんで、欧州のエグゼクティブが最低限身につけている人権に関する感覚をみっちり仕込まれたらしいんです。」



 浩志が山本から聞いたところによると、欧州のエグゼクティブは人権を蔑ろにすると、どういうしっぺ返しがくるか、彼らの歴史からよく学んでいるという。英国のマグナカルタから始まり、アメリカ独立戦争、フランス革命、ロシア革命など、人権侵害を発端とする数多の事件を彼らは経験してきた。日本は大戦後の外的要因を経て一応は民主主義国家ということになっているが、労働環境や待遇の劣悪さ等を見ればまだまだ欧州のレベルには至っていないという。




「サイラスシリンダーをご存知ですか?」
 キュロスシリンダーとも呼ばれるそれは、円筒状の粘土板に書かれたた現存する中では世界最古の人権宣言と言われている。紀元前538年頃にキュロス王がバビロンに入城した時、バビロンの民衆の人権(信仰、財産)を保証すると高々に宣言したものだと言う。



「山本さんは2500年以上前にそのような概念が根付いていた点に注意するべきだと言ってました。つまり、人権というのは人類が普遍的に希求するものなんだと。僕らのお客さん達がそれを求めているんだと。これをおろそかにしてはいけないと。」
幸太郎はただただ圧倒されて、耳を傾けることしかできないでいる自分に気がついた。



「驚きましたよ。佐々さん達と組合事務所で延々と議論して、なんとなくぼんやりと掴みかけていた感覚を、僅か2,3ヶ月で学んでこられたんですから。しかもそれらがビジネス英語の教材になるほどに体系化されてるって言うんです。」

幸太郎も思わず唸った。法務部員の彼にそうのような教育を施している点も注目すべきポイントだ。それに、その語学留学は毎年10〜20人ほど派遣されていたはずだ。もし10年続くと100〜200人という結構な勢力になる。受講者らは現在はまだ幹部候補生といったところだが、10年後になれば幹部層のど真ん中を担う者も少なくないだろう。そうなれば水産も変わってくる。一方、幸太郎と法務部の山本とは同期であるし、水産での職位もそんなに差があるわけではなかったが、幸太郎が水産から受ける研修は関連会社の社長や事業部門長向けのものになっており、毛色がかなり違ってきている。こういうポツンと取り残されたポジションが労使間の摩擦といった点において実に危うい。組合活動を経てそれを熟知していた彼は、こういった分野の情報収集にも勤しまねばと気を引き締めた。



「それにしても、あの語学研修はどの筋の企画なんだろうな。」
まだまだ泥臭い水産会社の一つだ。このような企画を通し、数年間続けているからには、大物が噛んでいるのだろう。
「さあ・・・人事部が絡んでいることは確かなんですが。僕も詳しくは知りません。最近の人事部はダイバーシティ度向上のためにコンサル入れたりして、働きやすい制度作りに力を入れてたりして、とにかく凄いですよ。むしろ組合の要求事項より人事部が組んだ会社側の提案の方が洗練されてて、組合執行部は恥をかきっ放しな状況がここんとこ続いてますね。」



幸太郎が何を気にしているのか、長い付き合いの浩志には大凡の予想はついていた。
「社長、会長のラインだろうな。」
数年前、まだ若くして水産の社長に就いた市谷の顔をまず思い浮かべながら、幸太郎はそう呟いた。市谷は海外赴任が長く、とにかくスマートという言葉がよく似合うタイプで、社長就任以来、口酸っぱく海外展開の重要性や新業態への進出を説き続けていた。また働き方改革という言葉が社内で出始めたのもこの頃だ。幸太郎が水愛を立ち上げられたのも、市谷体制があってこそだっただろう。



一方、前社長で現会長の天野は絵に描いたような水産会社叩き上げの人間であった。『マッチョ派の最後の砦』のようなことを自ら口にして、昔ながらの気質の者達の支持を得てはいるが、実のところそうではないと幸太郎は見ていた。そもそも市谷を後継に指名したのは天野だ。天野は次の時代のあり姿をよく心得ていたと見える。これまでの泥臭いやり方では限界がある。海外の現地人はおろか日本の若者にすらソッポを向かれ、やがて消費者も離れていくだろう。そこで自分が持っていないモノを有する市谷を後継に指名し、会社の将来を託したのだろう。



ただ、市谷はあまりにもこれまでの水産の気質と違っている。社内が騒然とし、結束も無くなってしまうことは明らかだ。そこで、天野は会長として古参の重役達をどなり散らしながら、マッチョ派にしかできない泥臭い仕事の集大成に掛かった。古参の幹部らに花を持たせつつ、自らが会長を勇退する際に、一緒に引退させるつもりだろう。その後は市谷とその後継者達による新しい時代。天野の頭の中ではそういった絵が描かれているに違いない。組合役員として当時社長であった天野と対峙してきた幸太郎にはそう見えていた。水産も間もなく大きく変わると確信した。自分も遅れを取ってはいけない。そういった意味でも、このボトル水のプロジェクトは重要だ。

「岡部がそういった方面で辛酸を舐めていたとは知らなかったよ。今度のうちの話はな、そういった方面に敏感な人達がお客さんになると思う。俺は岡部に声を掛けて良かったと思うよ。」
浩史は複雑な表情を浮かべながらも微笑で礼を表した。

 ようやく二人は本題に入った。どうやって大量のボトル水を捌くか、だ。「基本は金田の水と同じですからね。彼らが直に通販をやっている以上、水愛も通販だけというのは厳しいでしょうね。」
 幸太郎は深く頷いた。それは分かっている。広島県内ならまだしも、中国地方全体となると今の水愛は全く販路が無い。始める前から手詰まりだった。
 「販路拡大のため、販売代理店を広く募集するという手もあります。町の小規模店舗向けですね。最近では健康志向のショップやレストランが増えてますし、彼らはインターネット販売も活発に手掛ける傾向にありますから、自然とネットでの地名度も上がってくると思います。」



正直なところ幸太郎にはさっぱり実感が沸かない話だった。他力本願過ぎるような気がしたし、如何わしい代理店が現れたらイメージダウンを免れないのではないか。

「今の水愛の体力で、全てを一手に担うのは不可能です。こういった場合、オールスター作戦、つまり分業で攻めていく必要があるのです。」



次第に口調に熱を帯びてきた浩志だったが、幸太郎の心境は反比例的に沈むばかりだった。ディスカッションの繋ぎ方が苦しくなってきた幸太郎は、ひとまず分業というところにスポットを当ててみることにした。

「分業か。なるほどね。では水愛は何を担うべきだろう?」
「広告と物流です。」

 幸いなことに「金田の水」のイメージは田舎臭い。水愛は健康志向の女性に訴求できるようなイメージ戦略を取るべきだ、と浩志は語った。

「佐々さん、テレビCMを打ちましょう。」
この一言に幸太郎は大きく仰け反った。これまでの重苦しい胸の内が吹き飛んでしまった。
「な、なんだって?」
もちろん全国区というわけではないが、県内だけというのも最低ロット数からすると狭すぎる。中国地方へのテレビCMを打つ。そしてそれを動画共有サイトにアップロードし、全国の代理店が自由にシェアできるようにする、と浩志は力を込めた。



幸太郎はさっきとは逆に平静さを取り戻すため、浩志のもう一つのキーワード、物流にフォーカスすることにした。たしかにあれだけの数のボトル水を捌くためには物流も大きな課題だ。

「佐々さん、実は水産でも災害時の飲食料の備蓄に関するプロジェクトを勧めています。他社に横取りされないよう、新聞発表はまだ控えていますが、自治体との間で災害時の非常食備蓄協定の締結と運用を進めているところです。自治体が倉庫を確保し、水産がそこに缶詰を納めるんです。さらに平時は水産が物流センターとして使用し、在庫量は倉庫のキャパ70%以上をキープするように運用します。ただし、当地で災害が起きた場合は配送をストップし、非常食の配給に切り替えるという仕組みです。水産にとっては物流センターの土地と建屋が無償で使えるというメリットがあり、自治体には非常食の賞味期限切れの問題の解決や、物流センターの雇用というメリットが生まれます。もちろん災害時の備蓄用ですからパックご飯やボトル水も入ってますが、ご存知のとおり水産はこれらの自社品を持ってませんから、商流的にあまり好ましくない状況です。水愛がボトル水を自社ブランドとして取り扱い始めると、相性がとても良いと思いますね。広島でもちょうど話が進んでいるところだと聞いてます。」



幸太郎はカッと目を見開いた。こいつは今日何回俺を唸らせるんだ!
未だに販売代理店の素性のリスクが気にかかってはいたものの、これだけの話が目の前にぶら下がっていて攻めない手はない。

広告だ、ターゲット顧客層の心を掴む広告さえ当てれば、このプロジェクトは成功だ。

幸太郎はカッと見開いたままの目を浩志の視線に重ねた。数秒は経っただろうか。それは男同士の握手の代わりだった。

 水愛のプロパー達を紹介しつつ、夜は久々に飲み明かそうと考えていた幸太郎だが、浩志はあいにく夕方までに本社に戻らねばならないという。
「佐々さん、なるべく早くこちらに身を移したいですが、すぐにというわけにはいかないと思います。僕が来た後もキーパーソンが佐々さんと僕だけというのは厳しいです。プロパーさん達の中から幾人か選抜しておいて欲しいです。」

 幸太郎は力強く頷いた。水愛もようやくそういう時期に来ている。良い人材も育ちつつある。

 幸太郎は浩志の背中を見送りつつ、「あいつも春から管理職だな。」と呟いた。



第4話に続く

この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありませんが、今後の連載の参考となりそうな情報がございましたらお寄せ頂けると幸いです。

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